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生きる理由ってなに?代替可能な世の中でもがきながら生きる意味。

生きていることになんの意味があるのか。自分がいなくてもこの世界は何も変わらない。誰も困らない。それなのに、なぜ生きないといけないのだろうか。自殺はなぜ忌避されるのだろうか。

生きる理由、存在意義

あなたにもし、守るべき家族がいるならば生きる理由はあるだろう。

あなたにもし、成し遂げたい夢があれば生きる理由はあるだろう。

自分である必要性がない

私には生きる理由など一つもない。家計を食いつぶす人間が一人減るだけだ。社会に貢献することができるような能力もないし、そもそもこの社会を必死に維持する必要性も感じない。いつ人生が終わっても、いつ世界が滅びても一向に構わない。こんな風に考える人は少数派なのだろうか。

別に何があったわけでもない。成績はいい方でまあまあの大学に進学し、就活はうまくいきそうにないけれど、不平不満のない生活を送っている。自尊心が低いのは幼少期からで、だからといっていじめられるわけでもなく、かなり平和な人生を歩んできた。親は過保護なくらいで実家にほとんど帰らない私を見捨てずにいてくれるし、数少ない友達は私の怠惰な本性を知りながら一緒にいてくれている。人間関係にも恵まれている。

それでも、小学生の頃からずっと、この気持ちは消えない。なぜならば、それが自分である必要性がないからだ。代わりはいくらでもいるし、いなくなったところで世界は回るのだ。

明日、君がいない

私は死んでいいなら、簡単に死ねるなら今すぐにでも死にたい。コストと後遺症のリスクが高すぎるから敬遠しているだけで、生きたい理由なんて一つもないから。親には教育費を食いつぶすだけつい潰して申し訳ないと思う。友人には妙に関わったばかりに後味の悪い思いをさせて申し訳ないと思う。しかし、それはきっとその人の長くて雑多な人生のパズルのピースの一つに過ぎないだろう。

「明日、君がいない」という映画のあらすじを読んだ。多くの人の死は、「君がいない」程度に片付いてしまうものなのだ。小学生の時、3軒どなりの家の子が事故で亡くなった。仲がいいわけでもなかった。なんとも思わなかった。自分には人並みの感情がないのだと思った。同時に、自分が死んだところで世界は静かで、ほとんど人にとってはどうでもいい事件の一つなのだと思った。

世間体と迷惑

世間体が悪いから自殺だけはやめろと言われた。妙に納得した。確かに、自殺者の家族なんてレッテルを貼られるのは困るだろう。プラスにはなれなくても、マイナスにだけは、家族の重荷にだけはなりたくない。友人はまだしも、家族にとっては精神的負担以上の社会的損害を被るだろう。

だから、自殺するとしたら事故死に見える方法で自殺するか、誰にも発見されないように失踪という形をとるだろう。今の所、実現可能性の高い手法やプランは思いついていないけれど。雪山で滑落死、沖合で溺死、人気のない高速道路や山道で事故死なんかがいいだろうか。人が関わるような死に方は相手に精神的ダメージや社会的ダメージを与えそうだから避けたい。だから、電車への飛び込みや幹線道路への飛び出しや飛び降りなんかは端から選択肢から外れている。

積極的に死のうとした場合、配慮すべきことはいろいろあるし、だいぶ準備も面倒だ。

死ぬ権利がある世界

安楽死

合法的に死ねる安楽死は素晴らしいが、現在の制度上自分は安楽死適用条件を満たさない。スイスでは外国籍者でも安楽死が可能で安楽死ツアーも組まれているが、重度の疾患により耐え難い苦痛があることが条件となっている。オランダでは重度の疾患だけでなく、高齢者、精神疾患者、未成年者の安楽死も認めている。しかし、その認定基準はやはりある程度厳しく、この社会で生きていくのが息苦しいからという程度では到底認められない。その他、ベルギー、カナダ、アメリカの一部州でも安楽死を認めているが、各国一定の基準を定めている。

死にたいときに死ぬ権利を認めてくれればいいのにと思う。しかし、それが許されれば何人が大人になれるだろうか。人は誰しも一度くらいは死にたいと思うことがあるだろう。簡単に死ねる世の中になったら、何人がその権利を使うだろう。世の中の意識はどう変わるだろう。自殺防止の運動は続くのだろうか。世界人口はどのくらい減るだろう。人口増加による環境破壊や食糧問題は解決するかもしれない。人を死に追い込むことへの倫理感は変わるだろうか。簡単に人が死ぬならいじめをしようとする人は減るのだろうか。命の価値は変わるだろうか。

死にやすい世界、生き辛い世界

しかし、死ぬ権利を安易に認めれば、今度は辛くても生きていたい重度患者が生きにくい世の中になってしまうのかもしれない。重度の障害がある人は治療費にお金がかかるのにお金を生まないから死ぬのが当然だとか、社会の役に立たない犯罪常習者は死んで当然だとか、人を傷つけたのなら死んで詫びるのが当然だとか、そんな風潮が生まれたとしたら、それは嫌な世界だ。生きることが正しいとされる今の世界はある意味、弱者を受け入れ、相互扶助することを当然と考える美しい世界なのかもしれない。弱者は死ねばいいという世界は好きではない。

だとすれば、死にたい人が死ねない今の社会で自分が苦しみに耐える方がいいのかもしれない。価値観が逆転すれば、生きたい人が生きていいのか悩む時代が来るだけなのだから。今度は生きたい人が生きていいのか悩む時代が来るだけなのだから。死にたい人に対して死を許さない制度設計と集団意識は「生きること」を無条件に肯定し、「生きること」を半ば義務化している現状は悪くないのかもしれない。

まとめ

生きている意味はないが、自分が死にやすいような制度になると困る人が出てくる、それは申し訳ないから今のままでいいやという、つまらない結論になった。もっと、生きたい人にとっても、死にたい人にとっても望ましい新たな制度設計を考えていきたい。